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どうしやうもない私が歩いてゐる

二月の雨の日の事、友達四人とドライブへ行った帰り道だった。みんな疲れていて誰一人として口を開かず車内はとても静かだった。後部座席に座っていた奴の一人がカチッとライターを擦って漂ってきたのは蜘蛛の絵が描かれた銘柄の、甘い香り。つけっ放しになっていたラジオが流れており窓の外の景色をぼんやりと眺めながら耳を傾けた。愛や恋についてのよくあるトーク番組で、確か女の声だった気がする。しばらく聞いていたけれど次第に飽きてきた為チャンネルを変えようとしたら、後ろの席の煙草を吸っていない方の友達が「変えないでよ」と言ったんだ。そいつとちょっとしたやり取りをした後もう一度窓の外の景色へと視線を移した。二月の冷たい雨粒が、淡々とガラスを叩いていた。その時、もしかしたら「群像」とは、こういう瞬間をいうのかも知れないと思ったんだ。一線の電撃のような感覚が体の中を静かに走り抜けた。昔から何かをずっと欲していたのに、何を欲しいのかがずっと分からなかった。もどかしかった。それが写真を撮るようになってから少しずつ明確になっていくのを感じていた。だからその時、車窓を叩く二月の雨粒を何気無く見ていた時、今までにないくらい強烈に(でも不思議と穏やかに)、写真を撮り続けようと決意した。自分が、幼い頃から一体何を求めているのか、それを見つけ出す為に。この文章を書いている今、あの雨の日の車内で思い立ってから二十冊分の時が経った。きっと私は、時計の針よりも手元に残った作品の量を「時間」として信じているのだと思う。様々な時が“自我を消し去り”一冊一冊に宿っている。歩いていく(写真を撮る)先に何が見えるのか、それを知る為に私はカメラを握っているのだと思う。